勝鬨

8月1日(火)、PET-CTを実施した。

がん細胞の集積を確認する検査である。

FDGとよばれるブドウ糖に放射線を組み込んだ薬を使う。

運動性の疲労や糖分に反応するので、直前は静かに水とお茶だけで過ごさなければならない。

FDGが普段集まらないところに、ある程度の集積が確認できると癌と判断される。

生理的にも集積は見られるため、専門家による微妙な判定が行われる。

 

これを午前中に実施し、昼前には終わった。

医師からは18時に病棟の会議室に呼び出された。

会議室に呼び出されるときは大抵悪い話だ。

がん宣告、再発、再々発、再々々発、ドナー不適合、全て会議室での説明だった。

私は覚悟を決め、一礼をして席に着いた。

 

…検査の結果は陰性だった。

胸にあった0.5cmの腫瘍は消えていた。

実は多少の集積は認められた。

しかし、判定は陰性。

「多少の集積…」

すぐにスッキリはしなかった。

微妙な判定なのかどうか分からなかったからだ。

集積しているのはがん細胞ではなくFDG。

素人には、どんな可能性があるのか全く見当がつかない。

結局、治っていないということなのか?

しかし、すぐに分かった。

医師たちが笑顔だったからだ。

「全く問題ありません。」

医学的にはゼロの証明が難しいので、ある程度のところから下はゼロと解釈するという。

そんなレベルであるとのことだった。

仮に少し残っていたとしても、今は中間検査であることを強調された。

赤ちゃん細胞軍による掃討作戦が終わったわけではないということだ。

但し、ひとつだけ気になるのが甲状腺だという。

何故かFDGが集積している。

通常なら甲状腺癌を疑う。

しかし、医学的に、それは考えにくいとのこと。

手で触れる部位なので腫瘍がないことも、触診ですぐに分かった。

移植に使った薬の副作用もしくは胸の血管が異形なことに関与しているかもしれないと言われた。

「血管が異形?」

どうやら私の縦隔周辺は長い間巨大腫瘍と共に過ごして来たために、血管の迂回ルートを作ってしまったようだ。

もしかしたら、それが甲状腺に何か影響を及ぼしているかもしれないというのだ。

ただし、癌である可能性は極めて低い。

95%の確率で、何もないとの見解だった。

念のため、明日に超音波検査を行うことになった。

頭と心の整理が必要で、いつものようなガッツポーズは出なかったが、結果オーライである。

勝鬨を上げる。

下山

思ったより長い。ロングテールだ。

一時期の辛さからは全くもって逃れたが健康な生活までが長い。

前回の投稿からだいぶ時間が経ったので、簡単に経緯を書く。

 

前回、投稿後に一般病棟に移った。

免疫反応をステロイドと免疫抑制剤で押さえ込んでいる状態だった。

体調が良くなってきた段階で移植部屋は他の患者さんに譲らなくてはならない。

しかし、移植病棟は四人部屋か重病人個室しかない。

差額ベットという概念がそもそもないのである。

私は個室が良かったので、違う病棟に移った。

 

引っ越しのタイミングでは非常に体調が良かった。

臍帯血移植を受けた患者はDay35より手前の場合、殆どの人がベッドのまま移動してくるという。

私は歩いて荷物を持って行ったので、受け入れ先の看護師達に驚かれた。

しかし、そんな元気な状態も束の間だった。

部屋が移ると、色々不便に感じたのだ。

掃除のおばさん達のきめ細かい対応はなし。

移植部屋は埃もカビも全くないが、一般病棟はエアコンから少し臭いを感じる。

普通の空気で咳が出てしまう。

これは病院が汚いのではなく、私の環境が特殊だった為だ。

むしろ、病院の空気は外気よりはるかに綺麗だという。

移植部屋はNASAが認める最高基準のクリーンルームである。

雲の上と同じレベルの空気。

そこにいた為、通常より綺麗な筈の空気を汚れて感じてしまうのだ。

 

そんな中、ステロイドの量を減らしていった。

すると、おさまっていた筈の免疫反応がみるみる蘇ってきた。

これには驚いた。

嘔吐の日々が戻ってきたのだ。

胃に免疫反応が出て、せっかく食事が取れるようになっていたのに、また逆戻り。

水も飲めない日々が続いた。

胃カメラによる細胞採取が検討された。

胃に免疫反応が出ていることを証明できると、院内処方の胃腸専用の抑制剤が適用できるという。

私はそれを望んだ。

しかし、胃カメラは辛い。

ましてや水も飲めない状態。

外来患者達に混ざって、順番を待っていた。

皆、辛そうだ。

だが、どうしたことだろう。

自分の番になって、やってみたのだが、殆ど苦痛を感じなかった。

「こんなの朝飯前だな…。これで辛そうにしている人たちは移植は耐えられないだろうな。」

今回の経験を通じて感覚が狂ったのか。

いや、人間として強くなれたのかもしれない。

私は前向きにそう捉えることにした。

そして、胃の免疫反応が証明された。

専用の薬を投与することが出来、急速に体調が回復した。

回復するには大体1週間くらいかかる。

なにせ水が飲めなくなっている状態からスタートだから。

そして、回復してくると、前回の経験を活かしながら免疫反応が出ないように薬を抜くプランを検討する。

 

これが、薬を抜くための1ターンである。

これを徐々に繰り返していく。

今でもやり続けている。

点滴が取れて、全て内服に変わって、状態が安定すると退院となる。

しかし、そこから半年〜1年かけて内服薬を抜いていく。

これに関してはまた別途、ブログを書いていこうと思う。

 

今日はDay52。

殆どの点滴が外れ、日中数時間だけ脳炎予防の薬とステロイドを投与している。

免疫抑制剤は先週から内服薬に変わった。

臍帯血移植の患者としては超優良な経過らしい。

 

臍帯血移植のリスクに関して改めて整理するとこうだ。

・入院患者の10〜20%は(日本の最高機関である病院でも)退院できずに死亡する

・臍帯血移植後の1年生存率は約50%。(二人に一人)

・臍帯血移植後の10年生存率は約35%。(三人に一人)

・脳炎で社会復帰できなくなる人が10%程度存在する。

 

私は最も危険な患者の一人だったが、今は最も優良な臍帯血移植患者となった。

しかし、がん細胞が消えなければ目的は達成できない。

来週の火曜日にPET-CTをやることになった。

がん細胞の集積検査である。

がん患者なら分かると思うが、これが癌かどうかの分かれ道という検査である。

移植前には胸に0.5cmの腫瘍が存在していた。

今回の大量抗ガン剤および赤ちゃん軍の暴走を切り抜けたとしたら、これは厄介な相手。

その時は再度赤ちゃん細胞を暴走させるらしい。

結果は8月1日に判明する。

 

果報を寝て待つ。

無事生還

永らくブログを書くことが出来なくなった。

前回の投稿からたったの10日だが、人生で一番長い10日だった。

私は生着したら余裕だと思っていた。

第二関門を越えれば苦しみがなくなると思い込んでいた。

それは大きな過ちだった。

前回のブログ投稿後、赤ちゃん細胞軍が急増した。

結果的にDay14で生着をした。

しかし、赤ちゃん細胞軍は私を滅多打ちにした。

まず、高熱が出た。

ステロイドを投与しても38度。

仮にステロイドを投与しないと軽く40度を超える勢いだという。

所謂、生着症候群というやつだ。

前回、祈っていたのはGVHDと言って、私の免疫と移植した免疫との戦いだ。

戦いに勝った後、赤ちゃん細胞軍は体を支配する。

その後に、私自身を攻撃してきたのだ。

通常、臍帯血移植は生着症候群が弱いと言われているが、私が頂いた細胞は強かった。

今回、最も怖いのは脳炎だ。

脳炎の発症原因は現代医学で解明できていない。

高熱を出すとリスクが高まるという説とステロイドの過剰投与でリスクが高まるという説がある。

相反する二説。

医師はバランスを図り、ステロイド投与で38度台に抑える調整をしていた。

また、脳炎予防の薬を大量に投与した。

ホスカビルという劇薬である。

私の経験上、通常の抗がん剤と近いくらいの副作用を受ける。

加えて、免疫抑制剤の量を急激に増やした。

その結果、肺水症、逆流性食道炎、下痢、心臓肥大、血管内皮障害、浮腫、頭痛、高熱、痺れをほぼ同時に引き起こした。

文章で伝えることが出来ない、今までの人生で味わったことのない苦痛だ。

抗がん剤治療など屁に思えるくらいだ。

医療用モルヒネが全く効かない。

多少の波はあったが、約10日間続いた。

中でも最も厳しかったのは5日間くらいで、スマホをいじることもテレビを見ることも出来なかった。

もはや水を飲むことすら出来ない。

飲んだら吐く。

点滴から入れられるものは全て点滴に切り替えられた。

それでも、1日10錠くらいは飲み薬を飲まなくてはならない。

できるだけ唾液で飲む。

どのタイミングで飲むか、ベッドの上で考えていたのはそれだけだった

熟睡することも出来ない。

大量の薬物を投入しているので、腎臓と肝臓を守る為に大量の水を点滴し、利尿剤を打ち続けている。

30分〜1時間に一回は大量の小便が出る。

移植部屋の個室にはベッド脇にトイレが剥き出しで設置されている。

その意味が今更ながら分かった。

全ての穴から同時に出る。

想像を超える過酷さだった。

さすがに心が折れかけた。

しかし、何とか堪えた。家族の顔が浮かんだ。

私は直感的に思った。

(きっと今が正念場だ…ここで落ちていく奴と生き残る奴が決まる)

(強運は諦めない奴の元にしか訪れない筈だ…できることを探そう…)

 

医師や看護師が何をしているのか、私は向かい合っていないことに気がついた。

私は状況の説明を求めた。

タイミング、薬の投与量、リスク、症状の改善プランなど、先生たちは快く答えてくれた。

私は執拗にコミュニケーションを取った。

全てをブログに載せることは困難だが、結果的に幾つかの判断が変わった。

そして、3日ほど前にピークを過ぎたことを明かされた。

脳炎のリスクも減り、生命の危険性も安心してよい状況に戻った。

直ぐにエコーとCTで心臓のサイズ、肺の水、血管の太さ、脳梗塞、胃の内部を調べた。

結果、全て異常なし。

 

そして今、やっとブログを更新することができるようになった。

まだ、吐き気が残る。

未だに免疫抑制剤、ステロイド、ホスカビルは毎日投与しているからだ。

しかし、水・お茶・粥は喉を通るようになってきた。

今日は久しぶりに三食吐かずに食べられた。

少し元気になった私に医師が話しかけてきた。

私は辛かった回想話をした。

医師はこう言った。

「これで普通なんです。臍帯血移植は。個人差はありますが、むしろ順調で強運です。」

私は絶句した。

どうやら、ドナーさんからの移植(予定していたタイプの移植)だと、この10日間の辛さはなかったようだ。

そして、ここまで切り抜けると、ドナーさんから貰うタイプの移植より社会復帰が早いらしい。

加えて、ここまで強い免疫反応を示す臍帯血なら、ガン細胞も滅多打ちにしてくれると期待できる。

自分が死を感じるほどの強烈な暴れっぷりを見せるのだから、きっと大丈夫だ。

ちなみに、今は検査をしてもがん細胞は現れない。

しかし、120日経った時に、生き残りが細胞分裂をして増殖する可能性があるという。

仮にそうなった場合は、新たな免疫が攻撃することが期待できる。

以前も書いたが、仮に攻撃しない場合は、オプジーボという新薬で攻撃させることが可能だ。

 

来週から徐々に薬を減らしていき、移植病棟から一般病棟に移る。

そこから更に1ヶ月かけて退院できる身体に回復させる。

しかし、退院後も免疫抑制剤を内服するため、厳しい食事制限がかかる。

また、カビとウイルスに極度に弱くなるので、出来るだけ外出は控える。

その期間が半年〜1年と言われていたが、順調に行けば年内に免疫抑制剤を切れるかもしれないという。

しかし、完全に元の身体に戻るには3年くらいは必要だ。

全てリセットされているので、ワクチンなどは打ち直しになる。

生ワクチンは2年経過しないと打てないので、海外などに行けるようになるのは、その後だろう。

しかし、そんなことは大したことじゃないなと思えるようになった。

今日、病棟にある七夕の短冊に願いを込めた。

「娘とバージンロードを歩けますように」

私は二人の子供の成長を見届けたい。

絶対に病気を治す。

Day12

やっとブログを書けるようになった。

移植後は壮絶だった。

嘔吐、下痢、身体のムズムズ感、痺れ、浮腫み、腹痛が同時に襲って来た。

特に嘔吐とムズムズ感は耐え難い。

嘔吐は食事をすると、半日後まで吐き気が続き、最後は出てしまう。

毎日、食欲はあるが食べると出るという悪循環から、徐々に食事量が減っていった。

今はお粥しか食べられない。

栄養士さんとのコミュニケーションで嘔吐は抑えられるようになった。

吐き気はもはや仕方ない。

ムズムズ感は身の置き所がなくなる感じだ。

実はこれが一番辛い。

集中力がなくなり、3秒毎に体勢を変えないと、居ても立っても居られない。

これは薬の副作用であり、一度なると12時間はそのままだ。

対処法がなく、薬が抜けるのを待つしかない。

そこに腹痛と下痢が付き纏う。

もはや平常心でいられなくなってくる。

約一週間は試行錯誤の繰り返しだった。

飲み薬は1日50錠。

点滴は3リットル。

免疫抑制剤という移植細胞の拒絶反応を押さえる薬も投与する。

組み合わせを医師、看護師、薬剤師さんと相談しながら微妙にコントロールしていく。

何かを強くすると違うところに問題が出てくるので、全体のポートフォリオを調節していく。

まさに投資家ならぬ投薬家である。

そこに輸血が入る。

赤血球、血小板を足して行く。

血小板は白濁色の液体だ。

素人目には輸血と分からない。

しかし、赤血球は真っ赤なのだ。

透明のパックに入っているので肉の塊肉にも見える。

看護師の話では、生々しいから袋を掛けてくれとお願いする患者もいるらしい。

私には美味しそうにしか見えなかった。

久しぶりに焼肉が食べたくなった。

しかし、たまの検査で病棟に降りると一般外来の患者さん達からは冷ややかな目で見られた。

(あの人、若いのに重病人よ…)

薄っすら声が聞こえてくる。

点滴棒に着いてる数が多く、赤い輸血が特に目立つ。

(あなた達より生気は上だ!)

強い目線で睨み返してやった。

閑話休題

一番助かったのは医療モルヒネだ。

痺れと腹痛には効果覿面だった。

スイッチを押すと身体中に麻薬が回る。

フワッとした感覚で痛みが消える。

癖になるので、何回も押してしまう。

しかし、入れすぎると吐き気を催す。

私はできるだけスイッチを押さないようにしたが、日に何度かはお世話になった。

しかし、これらは実は免疫反応への対処ではない。

事前治療による身体のダメージがマックスになったことによるものだ。

事前治療では抗ガン剤を大量に投与する。

今までの約10倍の量。

ドナーさんからの移植だと、ここまでだった。

しかし、臍帯血は赤ちゃん細胞であるので、私の中の残党リンパ球達と喧嘩をすると負けてしまうこともあるらしい。

その場合、再度移植をしなくてはならない。

なので、徹底的に残党細胞をやっつける為に放射線を全身に浴びた。
抗ガン剤は血管しか通らないが、放射線は全身に隈なく当たる。

駄目押しの治療だ。

負けず嫌いの自分が、初めて負けることを望んだ。

しかし、前述の通り、その副作用は過去2年で経験したものと比較にならない強さだった。

そんな中、遂に先生から朗報を頂いた。

どうやら赤ちゃん細胞が勝ってきているらしい。

毎日、顕微鏡で血液を覗いてくれていたのだ。

徐々に身体の中で増えて生着に向かっているとのこと。

私は思わずガッツポーズをした。

そして、その夜熱が出た。

皮疹が出た。

涙も出た。

涙以外はDAY9FEVERと呼ばれる拒絶反応であり、もはや嬉しい。

「赤ちゃん細胞が十分な量に達するのは2週間くらいかかります。感染には注意してください。」

油断大敵ではある。

しかし、抗ガン剤が抜けてきて、投薬ポートフォリオが出来上がってきたので、私にはさほど問題ではなかった。

移植が第一関門なら、生着は第二関門。

今回、第二関門の扉をこじ開けるきっかけを掴んだ。

赤ちゃん細胞軍が雪崩れ込むのは時間の問題だ。

そこから一度陣形を整え、戦力と体力の回復を待つ。

赤ちゃんリンパ球はあっという間に戦力になる。

その間も赤ちゃんリンパ球による攻撃は行われるが、もし戦力が足りない場合は、オプジーボと呼ばれる薬を投薬することによって、免疫のブレーキを外し攻撃力を高める。

幸いにもオプジーボは高額医療だが、既にホジキンリンパ腫には保険適用が決まった。

最後の砦は育った赤ちゃん細胞を使って、私を苦しめたがん細胞を全滅させることだ。

必ず血祭りに上げて、勝鬨を上げる。

二次発癌への対策はそれからだ。

移植完了

2017年6月8日17時17分、臍帯血移植が完了した。

胸のカテーテルから僅か1分の輸注。

医師、看護師と家族が部屋に並ぶ。

心電図モニターを着け、抗アレルギー薬・補液・免疫抑制剤を点滴しながらの輸注。

上半身裸だ。

入院生活で弛んだ身体が恥ずかしいが、今は御構いなしだ。

生まれ変わる記念日という事で家族に揶揄されながらも自撮り棒で撮影した。

この1分のために25日間入院し、準備を整えてきた。

入院後は検査の連続。

10日前からはドナーさん待ちで前処置開始。

ドナーさんから移植出来ないトラブルはあったが、身体的には至って順調に進んできた。

心配された感染症にも未だかかっていない。

体重も殆ど減ってない。

足腰も毎日頑張って歩いたので、それ程弱っていない。

ただ、この数日は辛かった。

一昨日には1日で大量抗ガン剤投与を行った。

アルケランとフルダラという薬だ。

特にアルケランはシンドい。

胃と腸の粘膜が全てやられる。

吐き気も結構強い。

身体も怠い。

その状態で昨日は全身に放射線を浴びた。

既に40グレイ当てている私は、10年先の二次発癌を許容せざるを得ない線量に至ってしまった。

でも、10年生きられれば今は御の字だ。

10年先はきっと選択肢が広がっている。

今を生きたい。

放射線は全く痛くないが、やはり全身大ダメージを受けるので、吐き気や怠さが増す。

身体が火照る。熱い。

熱を測ると全く無い。

先生は安堵していたが、私は不快だった。

そして今日。

午前中、愛知から臍帯血が運ばれてくる。

昼過ぎには無事に届いた。

マイナス190度からの解凍を行うとのことだ。

17時頃の輸注が決まった。

私はもはや血が作れない身体。

輸注に備えて赤血球の輸血が行われた。

私はB型。

赤血球の輸血はO型。

血小板の輸血はAB型。

臍帯血はA型。

医学はよく分からないが、移植元と先の血液型の組み合わせで、輸血の組み合わせが変わるらしい。

そして、私は生着後A型に生まれ変わる予定だ。

生着には凡そ三週間かかる。

恐らく、明日以降に発生する拒絶反応との戦いだろう。

すでに身体が痺れる。下痢にもなりそうだ。

敗血症と脳炎にならないように、厳しい環境下で律さなくてはならない。

1日歯磨き5回、うがい8回、小さなキズが命取り。

爪を切るのも怖い。

煎餅食べるのも怖い。

耳掻きも出来ない。

吐き気、怠さ、火照り、下痢、痺れ、浮腫みと付き合いながら。

これから更に40度前後の発熱と大湿疹が予想される。

同じ病棟の先輩達は皆肌がボロボロだ。

まだ食事を完食出来て、運動が出来ているのが奇跡。

この状態が約1ヶ月続く。

蜘蛛の糸を辿る。

ドナー不適合

残念なことが起きた。

ドナーさんが肝炎にかかった。

5月30日が移植日であったが、二日前に延期が決まり一週間待った。

私は既に事前治療を八割済ませていたので、移植を止めることは出来ない。

誰かの骨髄を貰わないと生きられない状態になっていた。

かかりつけの担当医からも病院始まって以来の事態と告げられた。

一週間待っている間は楽観的な日もあった。

ドナーさんの容体が一時回復したからだ。

誰もが風邪だと思っていた矢先に、再入院後再び容体が崩れた。

ドナーさんは移植不適合の烙印が押されてしまい、ご自身の治療に専念することになった。

私にはバックアッププランが施されることになった。

臍帯血移植である。

出産時のへその緒から出る血液を臍帯血バンクというところで冷凍保存してある。

注射器一本分くらいの僅かな量だが、これを体内で増やして生着させるらしい。

誰のものでもよいわけではないが、ドナー適合よりかは遥かに適合種が見つかりやすい。

しかし、その分、リスクが大きい。

臍帯血移植には時間がかかる。

少ない量の細胞を体内で増やす必要があるからだ。

その間、私は免疫力がゼロとなる。

もちろん、無菌室で細心の注意が払われるが、体内に保持している菌もいる。

抗生剤は投与されるが、抑えきれないこともある。

また、移植後9日目に「Day nine Fever」と呼ばれる強烈な拒絶反応が起きる。

この拒絶反応ががん細胞を攻撃するという説もあるが、現代科学では定かではない。

拒絶反応はステロイドでコントロールできる。

私は現在、腫瘍が局所的なので抑えめで大丈夫だ。

拒絶反応を起こしすぎると脳炎になるリスクが増す。

脳炎になると3人に1人が死亡する。

3人の1人が記憶障害となり社会復帰が困難となる。

3人に1人は何も起きない。

臍帯血移植では10〜20%が脳炎になる。

かなり危険だ。

事前に分かっていたら、追い込まれない限りは選択しなかっただろう。

しかし、今は戦う時間も迷う時間もない。

残念ながら臍帯血移植一択なのである。

臍帯血移植自体は、よく行われている方法ではある。

移植といっても点滴注射で一分で終わる。

周囲の殆どは移植=手術と思っているようだが、移植=点滴なのである。

問題は移植した幹細胞が骨髄に生着するかどうかである。

また、生着する前に感染症にならないかどうかである。

なんだ感染症か、と高を括ってはならない。

38度の熱が出るような感染でも敗血症になって死亡するケースがある。

脳炎に至っては前述の通りである。

脳炎リスクを下げるために拒絶反応は最低限とする判断に至った。

オプジーボという新薬が後に控えているからだ。

オプジーボは免疫力を暴走させてがん細胞を攻撃する新薬だ。

移植後に使用した時の奏功率は高い。

なので、一世一代のかけをする必要がないのである。

本当は、この入院で全てを終わらせたかったが、そんなに甘くないのかもしれない。

オプジーボが効かなかったら、もはや打つ手がない。

しかし、現時点では完治率の方が高い。

データがあまりないのでハッキリとしたことは言えないが50〜70%と言われた。

私は以前からもっと少ない数値を言われていたので、正直驚いた。

リスクを取った分、移植を乗り切ればそれなりの期待が出来るとのことだ。

おそらくこの三ヶ月から半年で、この長い戦いの決着が見える。

移植日は明日、6月8日に決定した。

昨日が最後の抗がん剤、今日は放射線とヘビーな毎日だ。

しかし、もはや私の身体は何も感じまい。

放射線医からも線量オーバーで10年先に二次発がんの可能性が高いと言われた。

10年先なんて、なり振り構ってられない。

山中教授のIPS細胞と新薬、AI治療がきっと助けてくれるだろう。

私は最後まで勝ちに行く。

Day0

2017年5月30日。

移植の日が決まった。

GWが過ぎたら、入院して大量抗がん剤投与を行う。

目的は免疫の破壊。

自分の免疫を全滅させて、ドナーの免疫を点滴で入れる。

抗がん剤の副作用に加えて、拒絶反応に耐えなくてはならない。

5人に1人は1年以内に亡くなる荒治療だ。

しかし、私が完治するためには、一択なのである。

私はチャレンジすることに決意した。

 

ドナーが見つかったと聞いてからは早かった。

先生には油断できないと聞いていたが、心配とは裏腹にすぐに決まった。

どうやら若い方が移植に応じてくれたようだ。

法律の壁があり、ドナーの個人情報は一切提供されない。

しかし、立派な方だなと思う。

自分だったら、そのような依頼を受けられただろうか。

そもそも私はドナー登録すらしていない。

それなのに、助けていただくことが自分勝手で図々しいように思える。

ドナーの方にも一週間ほどの入院が必要だ。

大事なお仕事やもしかしたらデートの約束を調整して挑んでいただいているのかもしれない。

見ず知らずの他人の為に。

私は社会観を見直さなければならない。

性格的に奉仕の精神より敵対的意識が強い。

他人より先に何かを成し遂げることに強いモチベーションを感じるからだ。

自己顕示欲が強いのだろう。

しかし、私は今回のことで、見ず知らずの若い方に生命を分けてもらうことになる。

元気になったら自分の生命を大事にして、社会に恩返しをしなければならない。

感謝の念しかない。

再発そして骨髄移植へ

寛解となって3ヶ月が経とうとしていた。

私は不安ながらも定期検査を受けに病院へ向かった。

この3ヶ月、自分なりに対策は講じてきた。

しかし、病気は甘くなかった。

気管の分け目直下に2cm大の腫瘍が見つかった。

先生の話では抗ガン剤では、もはや快復不可能とのことだった。

私に残された選択肢はドナーを探して骨髄移植を試みるのみだという。

今、世間を賑わしているオプジーボという新薬を試す価値はあるが、完治は望めないとのことだ。

また、オプジーボを一度行うと骨髄移植後の生存率が著しく低下する。

ゆえに、骨髄移植一択なのである。

もし、骨髄移植を望まないとなると延命治療となる。

永遠に抗ガン剤を投与しながら腫瘍をセーブし続ける必要がある。

腫瘍がもし、今後5cm大にまで成長してしまったら、それは死を意味する。

医学的に手のつけようがなくなるらしい。

初期の12cmは治せても、現在の5cmは致命的なのだ。

骨髄移植は現在通院している病院では出来ないらしい。

某国立病院へのセカンドオピニオンを薦められた。

私は妻とすぐさま話を聞きに行った。

結局、治療方針に関しては全く変わらなかった。

他の権威に対してセカンドオピニオンを求めたが、その先生は某国立病院へと移動予定であり、判断は同様とのことだった。

私は骨髄移植に関しての説明を求めた。

わかったことは次の通りである。

・ドナーを探さないといけない

・ドナーを探すには日本骨髄バンクに登録が必要

・登録のためにはHLA検査という白血球の血液検査(実施済み)が必要

・HLAの型は全部で6種類ある

・全てがぴったり合っても移植後一年間の生存率は80%

・一つ型が下がると生存率が25%くらい下がる

・親(60歳未満)か兄弟(異母不可)は生存率が高い

・私は骨髄バンクから検索するしかない

・私の型に合う人は48万人中11人(やや少ない)

・11人が誰なのかは知ることが出来ない(お礼や交渉も不可)

・11人の誰かが応じてくれないと移植が出来ない

・平均的に5ヶ月くらいはかかる

・国立病院では治療の成功率が92%とやや高め

・移植までに胸の腫瘍をなくさないと移植後に再発する可能性が上がる

・移植には3〜4ヶ月の入院が必要

・移植後は社会復帰に半年〜1年かかる

・生き延びれば完治する可能性はある

・医者も無理には薦めない(説明だけして判断は自分でというスタンス)

私は移植を受けることにした。

早くて夏頃、それまでは入退院を繰り返して、とにかく胸の腫瘍をコントロールする必要がある。

去年の7月に5年生存率20〜30%と言われた意味がだんだんと分かってきた。

しかし、私は100分の20人に入るのはそれほど難しいことではないと思っている。

 

 

混乱

震災から一年過ぎた頃、グループ全体でオフィスを一つにすることになった。

また、グループ全体で社員旅行にも行った。

急速に一体感が強まっていた。

社長は怪訝そうな顔をしていた。

離脱と株の買い戻しが益々難しくなっていたからだ。

そして、あまり会社に顔を出さなくなった。

社長は他にも会社を経営していた。

私を含め、周囲は詳しく知らなかったが、グループトップの承認を取っていた。

採算が取れていれば特に問題はなかった。

だが、この時期、採算が悪化していた。

月次での赤字が3ヶ月連続で起きていたのだ。

そんな中、一人の営業マンが入社してきた。

40代前半の元ラガーマンだった。

金曜日夕方に決まり、翌月曜日からというスピード入社である。

この頃、社長は中国にいることが多かった。

奥さんが中国の人で、親族への結婚後の挨拶と聞いていた。

私は国際電話で社長に電話をした。

すると、ソーシャルマーケティング事業の為だと言われた。

私は「面接もしていない相手では責任が負えない」と伝えた。

すると、口論になる間も無く電話を切られた。

事実、元ラガーマンは社長の命令しか聞かなかった。

私の言うことは全く響かない。

元ラガーマンは、翌週から契約社員を使い始めた。

社長の許可を取っているとのことでパソコンを用意するように私の部下に指図していた。

それにも関わらず、営業マンは成績を全くあげなかった。

私は不審に思った。

彼の印象は悪かったが、実力者であると感じていたからだ。

(もしかしたら、他の仕事をやっているのでは…)

そう思わせる材料は十分にあった。

この半年、不可解な現象が幾つも起きていたのだ。

あるところでは、取引先の方から社長が別の名刺を持ってLED電球を売りに来たと言われた。

また、知人を自社に勧誘した時のこと。

社長面談後に連絡がつかなくなったこともあった。

暫くしてから社長の別会社に入社したとの噂をライバル会社の営業マンから聞いた。

その他にも空の接待疑惑が上がったこともあった。

奥様が関係しているお店に30分だけ付き合わされたとの声が方々から入ってきていた。

しかし帳簿を確認すると30分とは思えない金額が多数計上されていたのだ。

その他にも多数の疑惑が浮上していた。

そして、極め付きの元ラガーマンである。

私は元ラガーマンに遜り、営業の教えを請いたいと食事に誘った。

武勇伝を一通りお聞きすると、私は笑顔で質問した。

「それで、もう一社(社長の別会社)では、どんな営業プランをお持ちなんですか?」

彼は答えた。

「何だ。聞いていたんですね。」

私は答えた。

「もちろん、知っていますよ。」

不信感が確信に変わった。

乖離

セミナーは順調だった。

「ソーシャルマーケティング経営実践会」という有料の勉強会を作った。

セミナーで出会った方々約30人が会員になってくださった。

事業として成立させることが目的だった。

システム開発会社としての収益には繋がらなかったことが問題視されていたのだ。

年会費25万円を頂き、年6回開催の勉強会と無料コンサルティングを行うというスタイルだった。

共に全国行脚を行なっていたコンサルティング会社のビジネスモデルを真似た。

立ち上げ当初は非常に盛り上がった。

Facebookで告知したこともあり、取引先や友人・知人に広く知れ渡った。

取引実績の無い大手食品メーカーも数社会員になってくれた。

全国のセミナーで知り合った方からの引き合いも多かった。

しかし、一年も経つと次第に陰りが見え始めた。

私は焦っていた。

ソーシャルメディア自体が社会に浸透し、勉強会として輝きを失ってきたことを感じていたのだ。

セミナーに来る人数も呼ばれる回数も明らかに減っていた。

私は勉強会ではないビジネスが必要だと考えた。

そして、ソーシャルメディアを活用したマーケティングを事業として立ち上げた。

それは、セミナーや勉強会での教材そのものだった。

今まで培ってきたノウハウを活用して、組織としてのビジネスに移行させようとした。

しかし本質はマーケティングであり、本業のシステム開発ではなかった。

当然、プロフェッショナルとしては不十分な実力だった。

そして、遅すぎた。

見込客を訪れると、その自信のなさが露呈していた。

収益にもなかなか繋がらなかった。

次第に周囲が離れて行った。

胡散臭いと言われることもあった。

社内、グループ企業、支えてくれていた勉強会の会員様…

不満や疑問の声が多く伝わってくるようになっていた。

私は完全に行き先を見失っていた。