覚悟

去年の12月にステント手術を行った。
胸にある癌が大きくなってきて大静脈を閉塞した。
CTスキャンの画像を見たが、腸詰めのねじり部分のようだった。
手術は成功したが、癌は成長を遂げた。

選択肢がなくなってきたことから、2月から3ヶ月間は分子栄養学を実践した。
内蔵の状態は極めて改善した。
しかし、癌は広がった。

以前に2cmあった旨の腫瘍の他に前縦隔下部に4cmクラスの腫瘍が出現。
2cmの既存のものと合体してしまった。
また、肺の中に別途3つ腫瘍(最大3cm)が出来た。
炎症反応は10近くまで跳ね上がり、主治医は元気さを不思議がった。

オプジーボが重篤な副作用を引き起こした今となっては
選択肢はキートルーダというオプジーボと似た免疫療法の薬のみである。
薬としては似たようなものなので、オプジーボと同様の結果になる可能性は否めない。
しかし、現在の状況で仮に何も処置をしないと、3ヶ月は無理だと言われた。
おそらく2ヶ月くらいだと。
早ければ、あと数週間のうちに重体になる可能性がある。

主治医は早期の入院を勧めた。
現在、右目は失明状態である。
もしかしたら両目を失うかもしれない。
また、脳炎になって二度と社会復帰できないかもしれない。
二度目の間質性肺炎になって死ぬかもしれない。
コロナウイルスの院内感染に遭うかもしれない。

私は家族と話し合い、決断をした。
もはやキートルーダ一択である。

副作用が出なかったとしても奏功しなかったら死ぬ。
無論、諦めたわけではない。
いつも綱渡りだった。

しかし、覚悟のときが来た。

7日から入院する。

一筋の光

私は諦めの悪い男だ。

オプジーボは前回6分の1量で投与した。
それは世界的な事例に基づいた判断だった。
今回は2回副作業が起きた末の投与となる。
病院側の許可が下りるか分からない。

しかし、根本的な疑問がある。
「もっと少ない量で出来ないのか?」
この質問に対しては事例がないから、病院としてはできないというのである。

これに対して、2つ思いついた。
 ・事例を世界中から探せばよい。
 ・出来る病院を探せばよい。

主治医の先生はすぐに事例の探索を海外に向けて発信してくれた。
まだ返事はないが、オプジーボの試験投与研究が進んでいることは事実である。
それが認められればリスクをある程度抑えた形でのオプジーボ投与が可能となる。

また、癌が変異している可能性が出てきた。
びまん性大細胞型B細胞リンパ腫という悪性リンパ腫に変異している可能性だ。

初見時は12cmの腫瘍があったので、なんとか生検が出来た。
しかし、再度10cm越えのサイズになることは死を意味する。
常に5cm未満のコントロールが必要だ。

場所が心臓脇で大静脈や気管の間ということで生検はかなり困難を極める。
もし、この仮説が検証されたら、現在白血病向けに開発されているCAR-T療法が使えることになる。

白血病は癌細胞の表面にCD19というタンパク質が発現する。
ホジキンリンパ腫はCD30である。
しかし、びまん性大細胞型B細胞リンパ腫はCD19が発現するらしい。
これが証明されれば、新薬投与の期待が出来るのである。

国内の病院で可能な段階になるのは少し先かもしれない。
しかし、海外であれば事情は異なる。

11月上旬に再度CT検査で進行具合の確認をする。
大静脈のバイパス手術をもしすることになるのであればその前に生検を行うことが可能か病院側に確認依頼をした。

まだ諦めるのは早い。
子供達の寝顔を見ていたら未だ死ねないと思った。

悪運は強い。

暗雲

暗雲が立ち込めた。
遂に恐れていた事態が起きた。
病気が再発した。

全く腫瘍がないとは思わなかった。
しかし、少量だろうと思っていた。
見つかったのは2cmクラスと3cmクラス。
大静脈がサンドイッチされている。
胸が苦しいわけだ。

厳しい現実が告げられた。
もう完治を目指す薬はないとのこと。
選択肢は大きく5つ。

1・アドセトリス
2・抗がん剤治療
3・オプジーボ
4・放射線治療
5・2回目の移植

全てやったことのある治療である。

1のアドセトリスは、2回試みたがいずれも全く効果がなかった。
2の抗がん剤治療は全て試したが、いずれも再発した。
3のオプジーボは、病院からストップがかかる可能性が高い。
また、実施出来たとして、両目失明・半身不随・脳性麻痺などが起きる可能性が高い。
4の放射線治療は、もう出来ない可能性が高いが念の為確認というレベル。
5の移植は1回目と比べ物にならないくらい危険性が高く、また腫瘍がコントロール出来ている状況でドナーが見つからないと実現不可である。

つまり、上記の治療をいずれか組み合わせして、度々出てくる腫瘍を小さくし続けていないと、半年程度で亡くなるらしい。
今後、上記のいずれもやらない、もしくは効果がない場合は桜もオリンピックも見れないらしい。
しかし、それは現時点では考えにくく、抗がん剤に取り組めば少なくとも1年、長い場合で2年と言われた。
あまり変わらないけど。
今のペースで再発し続けた時に選択肢が完全に消える期間がそれくらいということである。

素人考えには他にも手段があるのでは?と思うのだが、実際にはないのである。
この話をすると、必ず海外では?と聞かれるのだが、既に連携をとっている。
しかしながら、移植患者として受けられる治験や新薬には限りがあるらしい。
これが現実なのである。

しかし、これは余命宣告ではない。
私が質問したので、先生は答えてくれただけだ。
余命宣告は選択肢が消えた時にするものだということも教えてくれた。
つまり、半年〜1年半後に選択肢が消えた段階であと半年弱です。みたいなことを言われるようだ。
そして、半年のうち、まともに生活できるのは半分くらいらしい。
つまりは3ヶ月くらいである。

経営者にとって、特に私にとって3ヶ月というのは事業計画の単位である。
1つの目標を成し遂げるのに3ヶ月で設定する。
この期間で、全てを清算するのは結構忙しそうだ。
徐々に畳もうか、まだ攻めようか。
後で家族や周りに迷惑かけるかなと悩んだり。

しかし、今から諦めるのは悔しい。
まだ、何となく死ぬ気がしない。
結構しぶといので、何かしら選択肢が増えるのでは?と勝手に期待している。

根拠はない。

1年より2年が良い。
しかし、苦しむだけで楽しめない延命は嫌だ。
でも、待っていたら好転するなら我慢したい。
どうせ死ぬなら死に方も考えたい。

自分らしい最期をどう生きるか。これも大事だ。
生に対する執着を持ちながらも、死に関してを真剣に考えなくてはならない時期が来たかもしれない。

どうしたらいいのか、よく分からない。

運試し

最後にオプジーボを投与してから随分時間が経った。
1年弱、癌が再発しないで押さえ込まれているのは初めてである。
2つの病院を掛け持ちにして、最先端の事例であるオプジーボと放射線のW投与が功を奏しているのだろう。

しかし、ここに来て体調がおかしい。鬱血するのである。
暴飲暴食をしているわけでもないのに、体重が増えている。
心臓に関わることだと思っているのだが、もしかしたらまた腫瘍が胸に出来て大静脈を圧迫しているのかもしれない。
主治医も分からないとのことで、10月7日にCTスキャンを取ることになった。
もし、腫瘍が出てきていたとしたら、オプジーボの投与はかなり迷う。
今の状態で行うと、半身不随や脳性麻痺、肺炎、失明など重篤な副作用を起こす可能性の方が高い。

また、もしその挑戦をしたとしても、同じことを数ヶ月に1度繰り返すことになる。もう放射線は併用できないからだ。
ここに来て、自分が追い込まれていることに改めて気がつかされた。

もう、効果的な治療がないのだ。

使える抗がん剤はない。
出来ることは、ステロイド剤の服用をやめて、過去にやったアドセトリスという新薬を気休め程度に投与するくらいである。
放射線、陽子線、手術などの可能性も確認したが、放射線はこれ以上は延命治療としてのみ可。
陽子線は照射不可能。手術も場所が悪すぎて出来ないとのこと。

つまり、次の再発で、状況を見ながらにはなるが、余命宣告となる可能性が高い。
難治であることは分かっているので、今更ではあるが。
ただ、誤解してほしくないのは、1mmも諦めてはいない。

10/7、運試し。

オプジーボの再投与

11月末のCTで、またもや増大が認められた。

束の間の喜びである。

顔がぶくぶくと浮腫んできたと思っていたところだった。

どうやら大静脈が押しつぶされている。

元々あった主の腫瘍は増大していないが、周りに衛星のように3つ小さい腫瘍ができて、大きくなった。

係り付けの病院では放射線治療が出来ないと言われた。

約1ヶ月で完全に閉塞する。

ことは急を要した。

日々、胸が苦しくなってくる。

最悪の場合、ステント(血管を広げるための器具)を大静脈に入れるらしい。

選択肢はいくつかあった。

まず、オプジーボの再投与だ。

間質性肺炎を起こしてしまったので、再投与はかなり危険だという。

それでも生きるためには最後の選択肢(他には再移植しかない)なので、私は迷わずやることに決めた。

今までの抗がん剤と違い、死のリスクに対する医師の手書きの記載がある紙にサインをした。

そして、私は古巣の病院にセカンドオピニオンに行った。

放射線治療をそこで並行で行うことになった。

セカンドの先生は世界的な権威であり、ホジキンリンパ腫においてオプジーボと放射線治療の相乗効果についての研究結果を教えてくれた。

また、イングランドの権威にメールでも問い合わせをしてくれて、私の病状に対して非常に効果的ではないかという見解を出してくれた。

私は主治医に、それを伝え、許可を取った。

主治医も賛成だった。

浮腫みは消え、腫瘍が小さくなりはじめた。

1ヶ月以上経過しても肺炎にはならなかった。

しかし、車を運転していると、何故か右目がかすみはじめた。

PET-CT@オプジーボ後5ヶ月

こんなに希望を持てたのは何年振りだろう。

前回の入院はオプジーボの副作用に対する治療だった。

肺炎を中心に治療を行い、2ヶ月を要した。

退院後はステロイドを徐々に減らし、順調に推移してきた。

当初4cmあった胸の腫瘍は9月の時点で2cmまで縮小していた。

しかし、10月初旬の造影CT検査では、それ以上に小さくはなっていなかった。

横ばいだった為、オプジーボの効果が切れてきたことが疑われた。

無理もない。最後にオプジーボを投与したのは5月下旬だからだ。

思い返せば闘病生活で3ヶ月以上寛解状態(腫瘍がない状態)が続いたことはなかった。

大規模な治療を行っても、直後の検査では消えるのだが、悪魔は直ぐに蘇る。

私は今回も同様のことを疑った。

「4ヶ月経って腫瘍が増大しないわけがない。」

それから、3週間。生きた心地がしなかった。

もし、これでオプジーボの効果が切れたら、再投与を試みなければならない。

徐々に効かなくなった先には死の扉が待っている。

楽しい生活も束の間。

夢から醒めさせられる気持ちだ。

しかし、PET-CTの結果は前向きなものだった。

消えてなくなりこそしなかったが、腫瘍の中心に反応が見られなかった。

PET-CTはがん細胞が糖分を取り込む性質を利用して、その集積度を測る検査である。

今回の検査では腫瘍の外側に反応が見られた。

しかし、それはがん細胞によるものではなく、免疫が集合している為に反応しているとの見解であった。

信じがたい気持ちが強かったが、サイズも大きくなっていない。

素人目で見ても若干小さくなっている気がする。

過去の体験と比べると、かなり沈静化していると考えられる。

もし、活動的であったなら、1ヶ月で1cm前後成長するからだ。

主治医はあくまでも「様子見」との見解を示したが、それは私にとっては十分だった。

少し追い風に変わってきた。

この1年間に遭ったこと②

GW明けにオプジーボ投与で入院が決まった。

初日から、いきなり投与した。

40度の熱が1週間近く出た。

インフュージョンというショック反応らしい。

普通の癌患者への投与では、38度程度の熱が一晩出て終わりになることが多いらしい。

私の場合はかなり酷い高熱だとの認識だった。

脳炎や筋炎を過去の移植後オプジーボ投与患者が起こしたとすれば、私の副作用は高熱だったと解釈された。

比較的軽い方と誰もが認識した。

しかし、これは序章に過ぎなかった。

退院はすぐに出来た。1クール終わると通院での投与となった。

2クールが終わったところで咳が出たが、レントゲンにも影が映らなかった。

3クールが終わり、数日経つと咳が酷くなった。

丁度、社員研修の講師を久しぶりに行ったが、終了後には、まともに喋ることも出来なくなっていた。

数日経つと、より酷くなっていた。100m程歩くと、息苦しさを感じた。

私は近所のコンビニに行く途中で地べたに座り込んでしまった。

その日は土曜日だった。病院に電話をすると、月曜日に通院するようにとの指示。

週末は安静にし、月曜朝に通院した。

通院すると、CTスキャン、レントゲンなど一連の検査を行い、血液検査の結果を末まで院内のコーヒーショプで時間を潰していた。

すると、主治医が看護師を連れて現れた。私は何事かと思った。

「すぐに診察をします。」

酸素濃度を測ると87%。

意識があるのがおかしいと言われたが、私は呑気にホットドッグを食べていた。

その日は妻の反対を押し切り、自分で運転してきていた。

自宅に荷物を取りに行くことも許されず、車椅子に乗せられ、そのまま即入院。

間質性肺炎にかかっていた。

間質性肺炎は非常に怖い。

肺をぶどうに例えると、房そのものが炎症を起こす肺炎である。

ぶどうの中が炎症を起こす方が幾分やさしいらしい。

即入院、即投薬をしないと生命の危険があるとのこと。

全身麻酔をかけられ、気管支鏡検査。

中度の肺炎との診察。

私はその日のことはよく覚えていない。全身麻酔は前後の記憶が飛ぶらしい。

術後に周囲に電話をかけたらしいが、全く記憶にない。

翌朝、携帯の通話履歴を見て驚いた。様々な人に電話をかけていたのだ。

再度、通話相手に電話をかけて伺ったが、話していた内容はしっかりしていたらしい。

検査が終わると直ぐに大量のステロイド剤が投与された。

臍帯血移植の時の2倍量だ。

医師曰く、初回の治療で炎症が治るかどうかがポイントらしい。

もし、投与量をセーブして薬が効かないと、そこから投薬料を増しても遅いとのこと。

初回で効かないと、そのあとコントロール出来なくなるとのこと。

「死」という言葉こそ使わないものの、かなりの確率でそうなると私は認識した。

こういった時に看護師は役に立つ。

先生から言われたことを確認するのには、看護師に聞いてみるのが一番だ。

看護師は医学的な知識も多少持ち合わせているが、現場の情報として間質性肺炎患者がどうなるかを知っている。

どうやら間違いないらしい。

初回治療で炎症が治らないと、かなり危ない状態になるとのことだ。

 

翌朝、咳が止まっていた。大量のステロイドがどうやら効いたようだ。

一安心である。

私は一週間くらいで退院できるのかと思った。

しかし、医師から告げられたのは1ヶ月は最低入院とのことだった。

ステロイドを徐々に減らしていく必要があるとのこと。

急激に減らすと肺炎が再燃する可能性が高い。

再燃した肺炎というのはコントロール出来ないとのことだった。

時間をかけてゆっくりとステロイドを減らしていく必要があるのだ。

 

最初の二週間は順調にステロイドを減らすことが出来た。

しかし、途中から肝臓や膵臓、血小板にもオプジーボの副作用が現れた。

ステロイドを早く抜かないと、癌細胞が大きくなるリスクもあった。

また、副作用がこれ以上強くなると、それによる生命の危険も出てきた。

その時はステロイド剤の増加では抑えられないので、免疫抑制剤を使うとのことだった。

それでは本末転倒である。

免疫を暴走させる薬をいれて、抑制する薬で抑えてしまっては、何のためにやったのか分からない。

そして、免疫が抑制されれば癌細胞が活発化するのである。

特に肝臓や膵臓が悪かったので、食事に気をつけた。

入院時に65kgあった体重は、ステロイドの影響による筋肉減少とダイエットにより、58kgまで減ってしまった。

移植時は80kgまで増加したことを考えると恐ろしい振り幅である。

一時はペットボトルの蓋をあけるのも厳しくなった。

私は抗うことを大切に、握力や脚力の筋トレに励んだ。

努力が報われたのか、次々と回復の兆しが見えてきた。

恐れていた癌細胞の肥大化も起きずに、むしろ3cmを切るまでに癌が縮小してくれた。

この状況下での縮小はステロイド減少後に更に縮小が望めるとのことだ。

私はゆっくりで良いので確実にステロイドを抜いて、癌細胞を小さくすることを大事にしたいと主治医に伝えた。

終わってみれば、約2ヶ月の入院期間が過ぎていた。

 

この1年間に遭ったこと①

Day63で更新が滞った。

生命の危険から出した瞬間にブログと向かい合うことが辛くなってしまった。

応援してくださっていた方達からは一部個別に連絡をいただく格好となってしまった。

自分勝手さに嫌気が差すが、なかなか再開出来なかった。

自分の状況を書くことは、どうやらジャーナリングというらしい。

人に話すことによって、ストレスを軽減するのだそうだ。

私はこのブログを通じてジャーナリングをしていたのかもしれないと思った。

生命の危険がすぎるとジャーナリングが必要なくなり、逆に辛い経験を思い出すようになってしまった。

しかし、今になって周囲から経験を伝えることも意味のあることだと諭されるようになった。

また書こうと思えるようになった。

 

今年2月に再発した。

折角の臍帯血移植だったが、癌細胞は生きていた。

しかし、移植した赤ちゃん細胞が元気だったため、癌の進行は以前よりも遅い。

意味がなかったわけではない。

私は弱いCMOPという抗がん剤治療を選択した。

やりたくなかったが、移植後の選択肢は2回目の移植かオプジーボしかない。

2回目の移植は成功率が2割以下だ。

私はカードとしては捨てないが、現時点では使うことはないと思っている。

それより、効果が実証されているオプジーボを試したい。

しかしながら、オプジーボは免疫が落ち着いてないと出来ないのだ。

主治医の見立てだと免疫が落ち着くまで数ヶ月必要だとのことだった。

 

CMOPを3クール行ったところで、足の神経障害が酷くなった。

一旦、抗がん剤治療をストップした方がよいという診断だった。

また、胸に再発していた癌はCMOPでは完全に止められず4.5cmまで育っていた。

このままだと2ヶ月で呼吸困難になる。

そろそろ免疫反応が落ち着いたこともあり、私はオプジーボに踏み切ることにした。

 

オプジーボは抗がん剤とは異なる。

自己の免疫が癌細胞を攻撃しやすくするよう作用する薬だ。

薬そのものが免疫力を破壊してしまう抗がん剤とは一線を画する。

しかし、副作用がないわけではない。

免疫を暴走させるため、移植同様に自分の身体を攻撃してしまうのである。

移植患者は既に免疫が暴走しているため、投与に大きなリスクを伴う。

私のかかりつけの病院は日本有数の症例数である。

しかし、ホジキンリンパ腫の移植患者がオプジーボを行った前例は三例しかない。

それぞれ結果が異なり、自分の身に何が起こるかを予測するのは難しい。

要するに、やってみるしかないのである。

Day63

案の定、甲状腺は異常なしだった。

今週に入って、肝臓の数値が少し乱れたが、ちょっとした酒飲みレベル。

私はお酒を飲まないので、元々の数値が低い。

回復も早く、直ぐに正常値に戻った。

明日、退院することが決まった。

移植後、9週間。Day63での退院。

臍帯血移植としては上出来だ。

 

今回の入院生活ほど、自分の価値観を変えた経験はなかった。

「大切な人を大切にしたい。」

「自分の価値を信じ、時間を大切にしたい。」

「他人の評価や期待に応えることに犠牲を払いたくない。」

「誰かに蔑まされようとも、嘲笑われようとも、脅かされようとも気にしない。」

「遠慮して生きることはやめよう。」

今回、人の暖かさと同時に冷たさも味わった。

それはブログには書かない。

美談ばかりではない。

死ぬかもしれないとも本気で思った。

するとどうだろう。

感謝の念が込み上がるのと同時に

無用な悩みや気遣いが馬鹿馬鹿しく思えて来た。

無駄に気を使って生きてきたことを後悔した。

金輪際やめる。

マイペースぷりに輪がかかるかもしれない。

ただし、筋は通す。

 

さあ、退院だ。

前回のPET-CTで甲状腺に反応が見られた。

触診で腫瘍ではないことは分かっていたのだが念のため検査を行った。

超音波検査では陰性。

原因不明の炎症とのことだった。

頭頸科に回されたが、所見は同じく陰性。

念のため、針生検を行った。

速報では陰性とのことで、来週の正式結果を待つことになった。

特に心配はしていない。

万が一、甲状腺が発がんしていたとしても命を取られることはないらしい。

おそらくはガッツポーズをさせない神様のいたずらだろう。

「まだ闘病生活は終わっていない。気を抜くな。」

そう言われている気がする。

先生からも退院後は感染に気をつけるように念を押された。

突然の退院宣告である。

念の為、検査結果を待ってから退院とのこと。

…というのも、7月下旬から劇的な回復がみられたのだ。

食事は制限の範囲内であれば脂っこいものでも食べられるようになった。

ハンバーグやラーメン大盛りまで食べられる。

体重は減ったが入院時から−5kg程度だ。

一番減ったのは足の筋肉。

しかし、日々のトレーニングで直ぐに歩けるようになった。

腹の贅肉は全く変わってない。

日々のダイエットは禁止なので、退院後努力しよう。

点滴は昨日をもって全て外れた。

内服薬に切り替えたタイミングで免疫の暴走が想定されたが何にも起きなかった。

残された課題は甲状腺だけで、それがもはや解決しようとしている。

第二関門突破の時が嘘のように退院前は順調に事が進んだ。

 

そして、今日、二ヶ月半振りに8歳の息子に会った。

4歳の娘とは分けた。

8歳の息子の方が心配しているからである。

癌は子ども達にも影響を与える。

移植の戦場では生きることだけを一先ず考えた。

家族のケアまで考えられなかった。

しかし、子どもは親父の必死さを感じ取り、不安になっていた。

私は妻と息子に病院に来てもらった。

会った瞬間、涙が出そうになったが、親父の威厳がなくなるので堪えた。

私は以下のことを伝えた。

・父は血液の癌にかかっていて2年前から闘病してきた(改めて伝えた)

・病気は一緒のお風呂に入っても一緒に寝てもうつらない。

・病気は誰のせいでもない(息子達が悪さをしたからなったとかではない)

・父の中にいる仮面ライダー(免疫)は悪者(癌)を殺せない

・今まで2年間は仮面ライダーも悪者も殺す抗がん剤という薬を、色々試して来たがダメだった。

・今回の長い入院では、父の仮面ライダーを殺して、元気な人から新しい仮面ライダーをもらうことにした。

・でも、もらえなかった。

・代わりに赤ちゃんライダーが来た。

・赤ちゃんライダーは聞き分けがないので、父を攻撃する。

・赤ちゃんライダーが成長するまで、ぼーっとする薬を飲み続ける(免疫抑制剤)。

・でも、ウイルスが入って来たときに、ぼーっとしてしまうから、成長するまではウイルスに気を付けなくてはならない。

・父は息子とサッカーや野球、キャンプや海に本当は行きたい。

・でも、上記の理由でいけない。

・一緒にいたくないわけではないから、理解してほしい。

・一緒にできることも沢山あるから、それは一緒にやりたい。

・治ったら息子は高学年になってしまうけど、父に付き合って遊んでほしい。

・父が病気に負けるわけないだろ。

息子は、自分なりに解釈して納得していた。

病気をどう思っていたかを聞くと「可哀想だと思ってた」と答えた。

いつの間にか成長していた息子の姿に励まされた。

生存率や奏効率なんてどうでもいい。

統計に人生を支配されたくない。

必ず治して、生活を取り戻す。